aloha
台湾から帰国後、不思議なことに仕事の内容と人間関係に変化が見え始めました。私の周りの環境が、整理されて行くような気がしています。
廟での修行中は23時に床に着き、6時に起きるという生活です。廟では学ぶことが沢山ありますが、三峽九鳳山無極七玄宮では基本が自力修行です・・・。教えて貰えるのではなく、自らで考え、努力をしてその成果を見てもらう(ジャッジ)して貰う、と言った方がわかりやすいかな・・・。
日中は35度以上の猛暑の台湾。
廟の宿泊施設には、極々限られた場所にしかエアコンは存在しません。作法を学ぶのは夜なので、日中はもっぱら”NINE SKY”という廟の敷地内に併設されている、カフェスペースで過ごしますが、一般の参拝客の方を優先し店内には入らず、テラス席でお勉強が日課です。
大人になって、自分の学力について他人から面と向かって意見される機会が無かったので、大学教授である信徒さんから私の語学力について指摘された時は、正直凹みましたが、確かに台湾で学び、活動する人間が現地の言葉を何も喋れないというのは由々しき事だと思い、台湾華語を学ぶ事にしました。
私は、私立のエスカレーター式の学校だった事と、あまり自分の学歴に高望みをしなったので、自分が楽に卒業出来る程度の学力の短大を選んだので、受験勉強で猛勉強という経験は高校受験の時くらいです。
人生で、肉体的にも精神的にも、追い込まれるほど勉強してテストに挑んだという経験は、30代の時の”リリアン・トゥー”の風水のクラスを受講した時。
連日徹夜で、録音した授業の内容を聞き直し、その日のうちに日本語に訳してテキストに書き込むという作業、さらにそれを暗記して翌日のテストの復習をする・・・。
これを、英語で行うのですが、英語漬けになるため、ちょっとうたた寝をすると、夢が全て英語になってしまうほど、追い込まれた記憶があります。
現在は、風水の本(中国語)台湾華語のテキスト数冊と、発音聞き取り用のCDプレーヤーを、常にお気に入りのバックに放り込み、合間に秋口に出版予定の本の”ゲラ”のチェックをしつつ、顧問契約会社様との通常の業務や出勤業務も楽しく頑張っております。
これは、仕事用のお気に入りのバッグ。COACHのダイナソーシリーズです。メンズなのですが、肩掛けしやすく大容量です。
テキスト、ゲラ、ポータブルCDプレーヤー、うさぎさんのポーチ、ipad mini,コスメポーチ、手帳、名刺、書類・・・・etc.結構入ります。
下の写真は、先日購入したポータブルCDプレーヤー。最近はCDは主流ではないのでかなり旧式かと思いきや、2017年生産の結構新しいタイプのプレーヤーを大久保のドンキでゲット・・・3900円って激安ですよね・・・。
さて本日は、過去ブログのコメント欄に”ドブネズミ”さんという方から、投稿されたお言葉への、私なりの回答をお届けしたいと思います。
まずは、コメントをご覧ください。
このコメントが投稿されたのはこちらの記事でございます。⬇️
該当の過去ブログ(記事:本物はテレビに出ない)
まず、ここで重要なのは私が、本物か偽物か?という吊るし上げではなく、『ノン・ジャッジメント』という、宗教回路の危険性ではないか?と、思うのです。
スピリチュアルカウンセラーを始め、霊能者や宗教家が好んで使う”ノン・ジャッジメント”という便利な言葉。
『ジャッジしない・否定しない・批判しない』=『ノン・ジャッジメント』
確かに響きは良さげですが、この言葉が生み出す”現状絶対肯定”の思考は、個人だけでなく、大きな対極で考えると、人間社会をかなり危険な領域へと導いているように感じるのは、私だけでしょうか?
『ジャッジしない・否定しない・批判しない』=『ノン・ジャッジメント』この考え方は完全な思考停止を促してはいませんか?
これはスピ界で、支配者側が自分都合で信者を支配するために、生み出されたものです。
あくまでも私見ですが、中国の社会主義の思想もこれと同じく『現状肯定の思想』において、国民を支配しているように感じますし、これを過去の日本に置き換えると、江戸時代に儒教というものを導入して、”お上”に逆らえないように、民衆へのコントロールが行われたのもここに該当すると思います。
確かに、「批判」という言葉には、後ろ向きでネガティブな印象があります。
”人の欠点ばかり指摘する” ”個人や会社を名指しでSNS上で批判する” ” 身の回りの環境や、個人的な感情、日常生活の不満ばかり撒き散らす” といったタイプの批判など、批判の種類も様々ですから、確かに批判は建設的とはいえません。
ただ、ここで勘違いしてはいけないのが、「公然と人(対象)を批判すること」と、「批判的に人(物事)を見ること」を同じ忌むべき行為と捉えるのはいかがなものか?というところです。
シチュエーションによっては、批判的な視点を持てるか否かは、重要な思考回路の確保に当たると考えられませんか?
例を挙げるならば、数学の試験の回答のように、数式に対しての正解が一つしかないものを追い求める時は、批判的な視点はそれほど必要とされません。
なぜなら、単純に数式を当てはめ既に確定している正解を導きだせば良い事ですから、批判は不要です。
該当の数式の答えは1つとすれば、つまりそれを疑う必要はありませんよね。
一方、正解がない、何が正解か曖昧、何が受け入れられるか分からない。といった内容の、複数の回答が発生する問題もあります。
そういう事態に立たされた時、自ら導いた回答を「唯一の正解」と考えるのは危険な事だと思います。
あくまでも私の意見ですが、自分と相反する立場の意見も複合的に考得る事、複数発生する見解を自分の中で処理する能力、選択肢、決断力etc・・・。考え方というのは人によって様々だと思うのです。
しかし、結局最終的には『自分はこれが正しいと思う』という、”結論”に至らなければなりません。
ここで重要になってくるのは、批判的な視点だと私は考えています。
ここで、コメント欄のご質問に戻りますが・・・
それこそ本物は人の事批判しないだろうし、自分が優れてるってアピールはしないですよね?!
本物であろうが、偽物であろうがスピリチュアル界に溢れている『ジャッジしない・否定しない・批判しない』=『ノン・ジャッジメント』は非常に危険だと私は考えています。
これを批判と取るのであればそれはそれで構いませんが、スピリチュアルカウンセラーは批判しない、本物は批判しない・・・。
だってお前スピなんだろ?ノンジャッジメントだろ?
私の見解では、この考え方は完全な思考停止を促しているように感じます。
スピの業界は、むしろ物事を批判的に見る、多面的に捉える視点や思考を持っていなければ、異なる立場の見解が出てきても正直対処出来ません。
ある程度、批判的な視点を持たなければ、考えが平坦で浅くなってしまいます。
私が本物か、偽物か・・・優れているのかタダの基地外の嘘つき野郎なのか・・・は、”ドブネズミさん”の見解にお任せしますが、私がこの記事で伝えたかったのは、スピ界にはびこっている『ノン・ジャッジメント』の危険性だったという事を、ご理解頂けたら大変ありがたく存じます。
貴重なご意見ありがとうございます。
貴方は本物のスピリチュアルカウンセラーなんですか?
本物の人はそんなに人を批判するもんなんですか?
マスコミに出てる人は本物なんですか?!
それこそ本物は人の事批判しないだろうし、自分が優れてるってアピールはしないですよね?!
あまりにも胡散臭い人達が多いですからね
失礼を承知でイロイロ言いました